とっておきの話

伊能さんのアヒル銀行【ヤマザキマリの世界逍遥録】

文・イラスト/ヤマザキマリ

ベトナム南部のベンチェ省はホーチミンから約80km、カンボジア国境にも程近いメコン川のデルタ地帯にあります。伊能まゆさんは、長い間この土地で貧困世帯の支援と有機農業の推進を支えてきた日本人女性です。

 
私が彼女と出会ったのは10年ほど前、ベンチェ省の公共施設の中に集まっていた地元の農家の人々に、アヒル銀行の仕組みと導入について説明会を行っている最中でした。アヒル銀行というのは、気候変動の影響やさまざまな理由によって、それまで持っていた土地が使えなくなったり、失ってしまったりした農家の人たちを救うための手段として、伊能さんが導入したものです。

 
まずは25羽のヒナを借り、アヒルに育てたあと市場で売った代金からヒナ代を返済。そこから徐々に飼育数を増やしていくわけですが、うまくいけばやがては牛や水田を持つことも可能です。現金の支援ではなく、自分の力で経済性を身につけていくというこのシステムによって、数年間で6割の農家が貧困から脱却。村を救ってくれた伊能さんは地元の人々から大いに頼られ、大歓迎される存在なのでした。

 
彼女に誘われて出かけた地元のご家庭では、用意されたテーブルに、それこそアヒルの肉の米麺フーティウをはじめ、ココナッツ、そしてエビなどベンチェ省の特産を使った料理やお酒が並べられていました。伊能さんは完全に地元の人と化し、ベトナム語で何かひとこと言うたびに、テーブル中を笑いの渦に巻き込んでいました。たとえどんなに生活が大変であっても、伊能さんのどこまでも明るく、そしてぶれることのない泰然とした様子は、人々にとってどんな支援よりも効果的な励ましになっているように思えました。

 
ベンチェ省の美しい自然とおいしい料理、そして懸命に日々を生きている人々の姿に、私も生きる力と英気を養われた滞在となりました。

 
やまざき まり
漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。比較文学研究者のイタリア人との結婚を機にエジプト、シリア、ポルトガル、アメリカなどの国々に暮らす。2010年『テルマエ・ロマエ』でマンガ大賞2010受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞新人賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章コメンダトーレ受章。2024年『プリニウス』(とり・みきと共著)で第28回手塚治虫文化賞のマンガ大賞受賞。著書に『ヴィオラ母さん』『ムスコ物語』『歩きながら考える』『扉の向う側』『貧乏ピッツァ』、作品集『ヤマザキマリの世界 1967─2024』など。現在、『続テルマエ・ロマエ』を集英社「少年ジャンプ+」で連載中、1・2巻が好評発売中。

 

(SKYWARD2025年6月号掲載)
※記載の情報は2025年6月現在のものであり、実際の情報とは異なる場合がございます。掲載された内容による損害等については、一切の責任を負いかねますのでご了承ください。

 

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