とっておきの話

トロント国際映画祭での一幕【ヤマザキマリの世界逍遥録】

文・イラスト/ヤマザキマリ

カナダのトロント国際映画祭で『テルマエ・ロマエ』がプレミア上映されたのは2012年9月のこと。当時シカゴに暮らしていた私たち家族も現地入りし、私は着慣れない着物を母から借りて、人生で初めてレッドカーペットなるものに足を踏み入れました。

 
主人公を演じた阿部寛さん、そしてヒロイン役の上戸彩さんがエントランスに現れるとオーディエンスからは大きな歓声が。普段は滅多に緊張をしない私ですが、その時ばかりは足が竦(すく)むような思いでした。

 
早速メディアからのインタビューが始まり、阿部さん、上戸さんの通訳を時々しながらも、原作者である自分にもいくつかのマイクが向けられた状態に。トロントには実は大きなイタリア系移民のコミュニティーもあり、祖国の古代史を舞台にした原作についての質問がやみません。

 
突然、背後から馴染みのある声が響いてくるので不思議に思い振り返ると、よれよれのTシャツを着た高校生の息子デルスが、汚いサンダル履きのままレッドカーペットに立っている姿が目に入りました。

 
「あんた、ここで何してるのよ!」と思わず声を上げるも、息子は戸惑った顔で私を見るばかり。すかさず彼の隣にいた阿部さんが「いいのいいの、今通訳してくれてるんだから!」と私を宥(なだ)めました。通訳の人手不足となり、急遽、デルスは複数のメディアに向かって阿部さんの発言を訳していたのです。

 
先に会場に入って前方の巨大スクリーンに映し出されるレッドカーペットの様子を見ていた夫は、そこにいきなりデルスの顔と鬼の形相の私が大写しになって、座席からずり落ちそうになったそうです。

 
映画の上映終了後、会場は観客総立ちのスタンディングオベーションとなり、阿部さんも上戸さんも私も満面の笑み。デルスにはその夜ホテルに戻ってから、あらためて声を上げたことを丁寧に謝りました。

 
やまざき まり
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『プリニウス』(とり・みきと共著)、『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『パンデミックの文明論』(中野信子と共著)、『たちどまって考える』など。

 

(SKYWARD2021年9月号掲載)
※記載の情報は2021年9月現在のものであり、実際の情報とは異なる場合がございます。掲載された内容による損害等については、一切の責任を負いかねますのでご了承ください。

 

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