とっておきの話

ドーフィネ地方のチーズ「サン・マルスラン」【ヤマザキマリの世界逍遥録】

文・イラスト/ヤマザキマリ

終戦直後、フランス系のミッションスクールに通っていた母は、当時フランス人のシスターから「フランス語の上達にもなるわよ」と、カルメンさんという姪っ子を文通相手として紹介され、なんとその方との交流は70年を経た現在も続いています。その間にカルメンさんが日本まで母に会いにきたこともありますし、母がフランスまで行くことも何度かありました。

 
私が中学2年生だったとき、母から「今年もカルメンさんの家へ行こうと思っていたのだけど、仕事が入ってしまったので、あなたが代わりに行ってきて」という提案があり、外国とはいえ、全く知らない人の家ではないので、それほど深く考えずに二つ返事でその提案に乗りました。

 
カルメンさんの実家はフランス南東部ドーフィネ地方の田舎にありましたが、家には近隣に暮らすというたくさんの親族が集まっていて、私を盛大にもてなしてくれました。皆私の一挙一動に対して興味津々で、この地域の名物料理であるというジャガイモのグラタンなど、私が辿々(たどたど)しいフランス語で「美味しいです」と伝えると大喜びをし、矢継ぎ早にさまざまな食べ物を薦めてくれました。

 
しかし、美味しい料理のなかに、一つだけハードルの高いものがありました。それは、この地域で生産されているチーズ「サン・マルスラン」です。その強烈な匂いを嗅いだだけで、私は異文化への適応が決して甘くはないことを知りました。戸惑い気味の私に、「むかしクマに襲われたルイ11世も、このチーズを食べて元気になったのよ」。カルメンさんが力説しますが、美味しいと感じるには私の味覚は未熟過ぎました。

 
あれから月日が経ち、世界のさまざまなものを食べてきた今ではすっかり「サン・マルスラン」の虜(とりこ)となっている私ですが、あの香りを嗅ぐと、人生で初めて感じた異文化適応への焦りが生々しく思い出されるのでした。

 
やまざき まり
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『プリニウス』(とり・みきと共著)、『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』など。

 

(SKYWARD2020年10月号掲載)
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