とっておきの話

リスボン ファドに誘われる郷愁【ヤマザキマリの世界逍遥録】

文・イラスト/ヤマザキマリ

リスボンで初めて暮らしたのは、下町にある狭い路地沿いの古いアパートでした。そのアパートの並びには、ポルトガルの民族歌謡である「ファド」を聞かせる飲み屋さんがありました。ファドは日本ではそれほど知名度はないかもしれませんが、2011年にユネスコの無形文化遺産に登録されたこともあり、こうしたファドを聞かせるナイトクラブは今や地元の人だけではなく、観光客も訪れる名所のひとつとなっています。

 
イタリアのカンツォーネやフランスのシャンソンがそれぞれの言語で「歌」を意味するのに対し、ファドという言葉は“運命”や“宿命”を意味しています。かつてポルトガルの植民地だったブラジルで、アフリカから奴隷として連れてこられた人々が歌っていたものを起源とする説もあるようですが、人生の不条理や哀しみを表した歌詞が多いのは、そうしたポルトガルの光と影に包まれた歴史に紐付いているからなのでしょう。

 
港町リスボンのファドには、海と共に生きる漁師や彼らの帰りを待つ伴侶の心情を歌った曲がたくさんあり、どこか日本の演歌を想起させられます。演奏形態の基本はギターラ・ポルトゥゲーザという丸い形状のギターと、クラシックギターの2本に、歌手が加わる3人体制。このふたつの楽器が奏でる切ない旋律と、歌い手の、喉の奥から絞り出されるような独特な歌唱を耳にした人は、歌詞の意味がわからなくても、皆、胸の内にある自らの郷愁と向き合うことになるはずです。

 
当時、私たちの暮らしていたアパートにはシングルマザーの若いファド歌手が間借りをしていました。彼女が仕事の日は、私たちを含むアパートの住民が彼女の5歳の女の子の面倒を見てあげていましたが、この子は「わたしもママと同じように歌手になる」と言って、いつも声高らかにファドを歌っていました。あれから20年、今頃は立派なファド歌手となって活躍しているのかもしれません。

 
やまざき まり
漫画家・文筆家・画家。東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。比較文学研究者のイタリア人との結婚を機にエジプト、シリア、ポルトガル、アメリカなどの国々に暮らす。2010年『テルマエ・ロマエ』でマンガ大賞2010受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞新人賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章コメンダトーレ受章。2024年『プリニウス』(とり・みきと共著)で第28回手塚治虫文化賞のマンガ大賞受賞。著書に『ヴィオラ母さん』『ムスコ物語』『歩きながら考える』『扉の向う側』『貧乏ピッツァ』、作品集『ヤマザキマリの世界 1967─2024』など。現在、『続テルマエ・ロマエ』を集英社「少年ジャンプ+」で連載中、1巻が好評発売中。

 

(SKYWARD2024年10月号掲載)
※記載の情報は2024年10月現在のものであり、実際の情報とは異なる場合がございます。掲載された内容による損害等については、一切の責任を負いかねますのでご了承ください。

 

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