温泉大国の日本では、どこであろうと温泉が湧いていると聞けば無意識に足が向いてしまう私ですが、なかでも地元の人が利用する共同浴場の気負わない雰囲気が大好きで、特に印象的だったのは熊本県人吉の共同浴場でした。
人吉は有名な大温泉観光地というわけではありませんが、この街出身の友人に「地元にいくつもある銭湯のすべてが温泉だった」と聞いてからというもの、いつか行ってみなければという思いを募らせていました。
私が訪れた“元湯”と“新温泉”という二つの老舗の共同湯はどちらも創業が昭和の一桁代、新温泉のほうは当時のままという建物の外観や脱衣場の趣に思わず歓喜し、漫画の資料用にと写真を撮りまくってしまいました。
人吉城のそばにある元湯では、湯船に浸かっていると地元の人懐こいお婆さんから声を掛けられ、お喋りがはずんでついつい長湯になってしまいました。観光客用の温泉と違い、普段使いされている共同湯を利用するのはたいがい馴染みの人ばかりでしょうから、新参者が現れれば気になるのは当然です。
球磨(くま)の方言でお婆さんが子どもの頃から親しんできた人吉の温泉自慢が始まり、私もそれを受けて、自分が暮らすイタリアでも温泉は何千年も昔から欠かせないものだったと返します。
素っ裸でお湯に浸かりながらのお喋りに気兼ねは必要ありませんし、地元の人々が心身から寛いでいる様子を目の当たりにするのも、お湯の効果と同様によい癒やしになります。
人吉は令和2(2020)年の水害で大きな被害を受けました。元湯は復旧を果たして営業を再開していますが、新温泉は残念ながら浴場建物のみを木造遺産として残すことに決められたそうです。
ほかにも廃業を余儀なくされた浴場はあると聞いていますが、人吉と人吉の人々の魅力は私のなかでいつまでも色褪せることはありません。またそのうちお湯に浸かりながらのお喋りを期待しつつ、赴いてみようと思います。
やまざき まり
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『プリニウス』(とり・みきと共著)、『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『パンデミックの文明論』(中野信子と共著)、『たちどまって考える』など。
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