とっておきの話

フェニキアのガラス細工【ヤマザキマリの世界逍遥録】

文・イラスト/ヤマザキマリ

シリアが平和だったころ、夫の研究のためにダマスカスに暮らしていた私たちが、月に一度国境を越えて訪れていたのが、レバノン東部の古代遺跡バールベックでした。もともとフェニキアの神、バアル神を祀っていた聖地で、その後古代ローマ帝国の統治下に置かれます。

 
ローマ人にとってフェニキアは自分たちよりも遥かに古い歴史を誇る文明の地ですから、紀元2世紀ごろに建造された巨大なバッカス神殿などを見ていると、フェニキアへの畏怖を凌駕しようとする彼らの心象が窺えるような気がします。

 
当時のフェニキアといえばレバノン杉という高級建材や、高級染料の材料シリアツブリガイの産出地ですが、工芸品として有名なのはガラスです。フェニキアのガラス細工はエジプトやローマなど地中海沿岸のあらゆる文明に影響を及ぼすほど、高い評価を受けていました。

 
かつて日本とイタリアから私たちの家族や知人が合流し、皆でバールベックを訪れたことがありました。散策が終わって待ち合わせのバス乗り場で皆を待っていると、元新聞記者のSさんがその場へ来るなり満面の笑みで「なんとフェニキア時代のガラスを格安で調達しました!」と手にしていた新聞紙の包みを広げて見せてくれました。

 
青と黄色と白の縞模様の小さな香水瓶は、確かに博物館でよく見かける代表的な古代フェニキアの工芸品です。よくこんなの売ってくれる人がいましたね、と皆で興奮していると、我々のバスの運転手がこちらを振り返り、「偽物だよ、それ」と一言。

 
Sさんは狐につままれたような表情で立ち尽くしていましたが、イタリア人のおばちゃんたちに「偽物でも本物でも旅の思い出には変わりない。大切にしなさいな」と背中を叩かれながら慰められていたのを今も思い出します。

 
いつの日かまた、この地を自由気ままに訪れられる日が来ることを願ってやみません。

 
やまざき まり
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『プリニウス』(とり・みきと共著)、『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『パンデミックの文明論』(中野信子と共著)、『たちどまって考える』など。

 

(SKYWARD2022年2月号掲載)
※記載の情報は2022年2月現在のものであり、実際の情報とは異なる場合がございます。掲載された内容による損害等については、一切の責任を負いかねますのでご了承ください。

 

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