今から10年ほど前に遡(さかのぼ)りますが、テレビの仕事でタイの首都バンコクを訪れました。日本の漫画やアニメのコスプレを普及させている日本人女性の取材が目的です。
なぜバンコクでコスプレ人口が増えているのか、私には全く想像もつきませんでしたが、その日本人女性曰(いわ)く、タイ人の気質にコスプレはとてもマッチし、コスプレイベントを開けばたくさんの人々で賑わうのだそう。実際私も彼女が発行しているコスプレ雑誌の撮影現場に立ち会いましたが、被写体になっていたのは、某人気漫画のキャラクターになりきったスタイル抜群の美女2人。衣装もそれぞれ自分たちで作ってくるのだそうですが、細部に至るまでの完成度の高さには目を見張ります。仕事で稼いだお給料のほとんどがコスプレ費用で飛んでいってしまうそうですが、「でも、こんなに楽しいことはほかにはありません」と、嬉しそうに微笑んでいました。
その後、バンコクの街に出てしばらく散策しているうちに、私はあることに気がつきました。繁華街の通りには、本当にあらゆる様子の人々が入り交じっていますが、誰も人の目など気にしている様子などありません。
頭に荷物を載せた行商のおばさん、紫色の髪の女性、オレンジ色の袈裟を纏(まと)った上座部仏教のお坊さん、トランスジェンダーと思(おぼ)しき人、真面目そうなサラリーマン、奇抜な服を着た若者たち、裸足で歩いている褐色の小柄なお爺さん。
私の視界の範囲だけでもそれだけ多様な人々がいるわけですが、タイでコスプレが流行するその理由には、これだけの個性のある人々が一体化している社会という背景が関わっているのでしょう。自分たちがなりたいものになることを拒絶するような空気は、そこには全くありません。あらゆる人間の生き方を当たり前に受け入れる寛大な国。それが私にとっての初めてのタイの印象でした。
やまざき まり
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『プリニウス』(とり・みきと共著)、『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『パンデミックの文明論』(中野信子と共著)、『たちどまって考える』など。
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