とっておきの話

ギリシャ・アテネの彫像と猫【ヤマザキマリの世界逍遥録】

文・イラスト/ヤマザキマリ

ギリシャのアテネにおける最大の観光名所、アクロポリスの神殿へ向かって丘を登って行くと、途中で一人の座る男性の彫像が視界に入ってきます。白い大理石の壁の前に鎮座するその像は、メナンドロスという古代ギリシャ時代の喜劇詩人を象ったもので、人々の日常の何気ない生活や人間関係を描いた彼の作品は、当時とても人気があったそうです。

 
古代ギリシャ人にとっての演劇は単なる娯楽ではなく、人としてのモラルや哲学を養い、家族や社会のあり方を考えるための大切なエンターテインメントでした。人々は足繁く劇場に通っては、ドラマチックな悲劇や愉快な喜劇を鑑賞しつつ、自らの精神性を磨いていたのです。そのなかでも大衆的な内容で、楽しく揶揄に富んだメナンドロスの作品は、現代に至るまでの後世の演劇界に大きな影響を及ぼした、演劇の礎の一つと捉えられています。

 
表現を生業とする立場として、大先輩の像を前にさまざまな思いを巡らせていると、ふとその隣で寝そべる猫の姿に気がつきました。かなり恰幅のよい猫で、近寄っても全く動じる素ぶりも見せません。完全に人間に心を許していなければ取れない態度と言えますが、かといって誰かの飼い猫でもなさそうです。そういえば、ギリシャではどの街へ行っても、その辺をのんびり犬や猫が歩いていたり横たわっているのを見かけますが、地元の人々が彼らに対してとても親切なこともあって、皆とても穏やかな様子なのが印象的です。それぞれの土地に生きる動物たちの安心感は、その国や人々の心のゆとりや優しさを示す指標と言ってもいいかもしれません。

 
初夏の心地よい日差しを浴びて悠々と横たわる幸せそうな様子のその猫も、あたかも隣に座る古代の喜劇作家の志を引き継いでいるかのように、前を通り過ぎる人々を温かい気持ちで満たすのでした。

 
やまざき まり
漫画家・随筆家。17歳でイタリアに渡り、国立フィレンツェ・アカデミア美術学院で油絵・美術史を学んだのち、1997年に漫画家としてデビュー。2010年に『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。平成27年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章「コメンダトーレ」受章。

 

(SKYWARD2020年1月号掲載)
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