フランス最古のローマ都市とされるニームは、私たち家族が当時暮らしていたポルトガルのリスボンと、イタリア・ヴェネト州にある夫の実家を3日かけて車で行き来をする際の、休憩地として程よい距離の場所にありました。
古代ローマの植民都市としての繁栄の名残で、街の中には円形劇場や神殿といった古い建造物が点在しています。そうした歴史的な要素も、私たちがこの街に立ち寄る理由の一つになっていたのですが、ある夏、いつものようにイタリアからポルトガルへ帰る途中、この街で宿泊しようとしたところ、大変な事態が起こっていました。
前代未聞の大雨で河川が氾濫し、街に続く道路は途中から冠水状態。降り止まぬ雨のなか、必要最低限度の荷物と猫のゴルムを入れたケージだけを抱えて予約していた古いホテルの扉を潜(くぐ)ると、そこの床一面水浸し。従業員の女性が必死にモップで拭き取ってはいるものの、通された部屋に入ってみればなんと天井から大々的な雨漏りが。どの部屋も同じ状態だと説明され、一応バケツを用意してもらうも、息子が「別のホテルにしよう」と表情を歪(ゆが)めています。こんな雨のなか別のホテルを探すなんて大変だよ、などと言い合いながら、ゴルムのケージを開けると、天井から滴り落ちてきた雨水に驚いて、わずかに開いていた部屋のドアから飛び出して行ってしまいました。
ホテルの主、従業員、我々家族総出で必死になって探した結果、食堂の片隅でうずくまっているゴルムを発見。そんな大騒ぎをしてしまった手前、我々家族にはホテルを変えますなどと言える勇気は出ず、諦めてその雨漏りの部屋で湿り気に満ち満ちた一夜を過ごしたのでありました。
その数年後、ホテルは改装が施されてすっかりきれいになっていましたが、ニームに立ち寄る度に、あの大雨と猫脱走の一夜を思い出してしまうのでした。
やまざき まり
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『プリニウス』(とり・みきと共著)、『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『パンデミックの文明論』(中野信子と共著)、『たちどまって考える』など。
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