とっておきの話

能登 珠洲の宿【ヤマザキマリの世界逍遥録】

文・イラスト/ヤマザキマリ

今から40年ほど前、17歳でイタリアへ渡った私は、イタリア人たちから日本のことを聞かれる度に、ろくな答えを返せない自分を恥じるようになっていました。当時は携帯もネットもありません。母に「何でもいいから、日本の文化がわかる本を送って」と手紙を書いたところ、間もなく彼女から「手元にあったから」と旅の雑誌が一冊届きました。

 
雑誌の特集は「能登の陰翳礼讃」。表紙を捲ると、そこには薄暗い和室の中に、鮮やかな朱色の漆器に盛り付けられた魚料理の写真が出ていました。能登独特の文化や家族のしきたりなどが細かく紹介されていたその雑誌は、そこから10年以上も私の愛読書となりました。考えてみれば、私がフィレンツェでキアロスクーロ(明暗)という画法で肖像画を描くようになったのも、この雑誌で見た写真の影響からかもしれません。

 
私が人生で初めて能登の地を訪れたのは、今から4年前。珠洲の湯宿を訪ねる取材でしたが、いくつかの訪問地の候補からここを選んだのは、自分の中で密かに育まれ続けてきた能登への憧れを優先したためです。

 
部屋にはテレビも電話も冷房設備もなし。夏は団扇と部屋を吹き抜ける風がたより。冬は囲炉裏と薪ストーブだけ。お風呂も17度の鉱泉を沸かしたもの。余計なものが一切排除されたこの宿の入り口に立った時、私はその宿の慎ましくも厳かな佇まいと、自然の力を借りる以外に演出など不可能な美しさに息を呑みました。片側が吹き曝しの黒い漆が塗られた廊下には夏の緑が鏡のように反射し、掃除のゆきとどいた部屋の窓の向こうには風にそよぐ木々が見え、寝具も、そして食事に使う輪島の漆器も、一流の職人が手がけた逸品で揃えられています。自然と、慎ましくも誇り高い人間の手業を敬いつつ、情報に掻き回されない時間を過ごす。この湯宿では本物の贅沢を体感できるのです。

 
やまざき まり
漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。比較文学研究者のイタリア人との結婚を機にエジプト、シリア、ポルトガル、アメリカなどの国々に暮らす。2010年『テルマエ・ロマエ』でマンガ大賞2010受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞新人賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章コメンダトーレ受章。2024年『プリニウス』(とり・みきと共著)で第28回手塚治虫文化賞のマンガ大賞受賞。著書に『ヴィオラ母さん』『ムスコ物語』『歩きながら考える』『扉の向う側』『貧乏ピッツァ』、作品集『ヤマザキマリの世界 1967─2024』など。現在、『続テルマエ・ロマエ』を集英社「少年ジャンプ+」で連載中、1・2巻が好評発売中。

 

(SKYWARD2026年4月号掲載)
※記載の情報は2026年4月現在のものであり、実際の情報とは異なる場合がございます。掲載された内容による損害等については、一切の責任を負いかねますのでご了承ください。

 

『ヤマザキマリの世界逍遥録Ⅱ』、好評発売中!

 
JALグループ機内誌『SKYWARD』の人気連載エッセイ「ヤマザキマリの世界逍遥録」の単行本化第2弾。
同誌2020年11月号~2023年10月号掲載分より31編、JALカード会員誌『AGORA』2022年1・2月号掲載の「ヤマザキマリ 聖なる島々へ」を再編集し、収録しています。

 

定価:1,650円(税込)
発行日:2024年10月29日
サイズ:四六判(天地:188mm/左右:128mm)
総ページ数:176ページ

 
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