とっておきの話

人生観を変えた絶品ストリートフード【ヤマザキマリの世界逍遥録】

文・イラスト/ヤマザキマリ

クメール王朝期に建造されたアンコール・ワット寺院は世界でも屈指の壮麗な遺跡として有名ですが、私がこの場所を訪れたのは、この遺跡の所在地であるシェムリアップに暮らす日本人女性の取材が目的でした。

 
カンボジアでは1970年代後半、ポル・ポト政権によって大量の知識人や文化人が弾圧され、人々から教育と芸術といった表現の自由が完全に奪い去られてしまった時期が長く続きました。その影響によっていまだに歌を歌ったこともない、楽器を見たこともないという地元の子どもたちに向けて、音楽の素晴らしさを伝えるための活動をしているのがその日本人女性でした。なぜカンボジアに暮らそうと思ったのですか、という質問をすると、理由の一つはこれなんですと彼女に案内されたのは通り沿いにある屋台のような商店でした。

 
そこで食べてくださいと彼女から差し出されたのは、ヌン・パンという名前の、小ぶりのバゲットの間に野菜や肉がぎっしり挟まれたサンドイッチでした。フランス領だった時代の名残の一品だそうですが、そのパリパリのパンの食感もさることながら、間に挟まっている青ネギに青パパイヤとにんじんのピクルス、そしてチャーシューのような味付けの肉の絶妙な味のマッチングに思わず絶句。つい喋ることよりも食べることに一心不乱になってしまい、挙句一本では足りずにおかわりをしてやっと満足するというありさま。

 
日本で彼氏に振られ、自暴自棄な気持ちでカンボジアにやって来たその女性は、このパンと出会ったことで人生観が変わり、ここで音楽活動をしながら生きていこうと決めた、というような話をしていましたが、まさにヌン・パンの美味しさにはそんな説得力が感じられます。

 
怒濤(どとう)の歴史が巡るなかで、間違いなくこの絶品ストリートフードはカンボジアの人々の心を支える大きな役割を担ったに違いありません。

 
やまざき まり
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『プリニウス』(とり・みきと共著)、『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『パンデミックの文明論』(中野信子と共著)、『たちどまって考える』など。

 

(SKYWARD2022年10月号掲載)
※記載の情報は2022年10月現在のものであり、実際の情報とは異なる場合がございます。掲載された内容による損害等については、一切の責任を負いかねますのでご了承ください。

 

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定価:1,430円(税込)
発行日:2021年3月31日
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