宮崎県宮崎市。市内を貫流する雄大な大淀川から生まれる景色は、取材旅行に訪れたかの文豪・川端康成に“宮崎の宝”と言わしめ、河畔の橘公園はNHKの連続テレビ小説『たまゆら』の舞台にもなった。大淀川を背に南へ進むと、昨今、大型商業施設が続々と開業するなど、にわかに活気づく南宮崎エリアが広がる。
今回の物語の舞台は、この地でまもなく創業90年を迎える「三角茶屋 豊吉うどん 本店」。現在宮崎市内に8軒を展開する宮崎うどんの老舗である。南宮崎は1950年代ごろまで大規模な製糸工場や市場で栄えた。同店が最初に店を構えたのもそうした経済圏の一等地、当時の鐘紡製糸工場の目の前だ。そしてこの立地こそ、宮崎の朝うどんカルチャーを醸成する素地だったのである。
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「おはよう」「お疲れさま」から始まる朝うどん文化
「じいちゃんは97歳で亡くなるまでずっとお店に出てました」。2代目・奥野千枝子さんが言う。「死ぬまで現役って感じで。やっぱりお客さんの様子が気になるんでしょうね」
昼時はとっくに過ぎている。カウンターの前のちょっとした行列はあいかわらず絶える気配がない。それを渋茶色のエプロン姿の女性が湯切りから盛りまで流れるような所作でさばいていく。実に歯切れのいい光景だ。
千枝子さんの祖父・奥野豊吉さんが前身の店「三角茶屋」を開いたのは、1932(昭和7)年のこと。市場や工場群に近く、朝6時開店ということもあって、野菜や魚を卸しに、あるいは仕入れに行く市場関係者、また出勤前の女子従業員さんたちの御用達だったという。まだ薄暗い店先で「おはよう」「お疲れさま」と挨拶を交わし、店内へと吸い込まれていく人々の姿が目に浮かぶ。こうして南宮崎を中心に定着していった朝うどん文化は、次第に県全土へと広がりを見せていった。
1960年代、幹線道路の整備に伴い現在の場所へ移転した同店は、店名を「三角茶屋 豊吉うどん」と改め再スタートを切る。1979年、豊吉さんの死去後は孫の千枝子さんとその息子で3代目の和一郎(かずいちろう)さんを中心にお店の味を守ってきた。
蛇足だが、巷では移転や改名の経緯をお家騒動的に描いた憶測が散見される。本稿では少なくとも取材で得た証言より、同店から独立・暖簾分けした店はないとだけ言い添えたい。
文豪たちを魅了したいりこの味
宮崎では柔らかいうどんが主流といえる。同店のうどんも、くったりと箸にもたれかかるような柔らかさで、なるほどこれなら幼い子どもからお年寄りまで食べられる。聞けば、使用粉は専用ブレンドで柔らかさに特化しているわけではないが、やや細い仕立てに加え、あらかじめ絶妙な加減でゆでてあるため、表面はゆるく気負いがない。飲むようにしてかきこめるうえに提供も早いとあれば、常連の皆さんがちょっと一杯と立ち寄りたくなるのも納得だ。
出汁も90年近く変わっていない。関西圏や香川とも、同じ九州でも博多や久留米あたりのそれともさまがちがう。素材は昆布、かつお節、いりこを使用し、宮崎県内の醤油蔵の淡口醤油で調えている。「どこのを使っても、これが一番うちの出汁に合うんです」と千枝子さん。深みのある琥珀色から放たれるどっしりとしたいりこの味わいは、川端康成や永六輔、戸塚文子(あやこ)ら多くの著名人を魅了したという。食べた者を体の芯からほころばせ、「明日もがんばろう」と背中を押してくれる滋養の味だ。
食後、創業当時は今よりずっといりこの分量が多かったと聞き、まぼろしの味に思いを馳せた。
この地でどんな役割を果たせるのか――。豊吉さんの意識は常にそこにあった。そうして生まれた朝うどんカルチャーといえば、今やすっかり深みを帯び、街なか、郊外とあちこちで薄暗いうちに暖簾がかかるさまを目にできる。
宮崎のうどん文化の牽引者、奥野豊吉さんに敬意を込めて。
三角茶屋 豊吉うどん 本店
電話:0985-51-9015
住所:宮崎県宮崎市大坪東3-1-3
営業時間:6:00~20:00
休日:1/1のみ休み
井上こん
ライター・校正者。各地のうどん食べ歩きをライフワークとし、雑誌やWebサイト、テレビなどさまざまな媒体でうどんや小麦の世界を紹介。「うどんは小麦でデザインできる」ことを伝えるため、週がわり小麦のうどんスナック「松ト麦」店主の顔も持つ。著書『うどん手帖』(スタンダーズ)。
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