「そばは喉越し」は、消費地だった江戸の人々の言い分。そばの里、信州の人はちゃんと噛んで味わうのが正しい賞味の仕方だと主張する。その言葉の真意を求めて松本へ。
目次
力強い風味を持つ
あのそばをもう一度
純白の雪を頂く北アルプスの峰々を従えて国宝・松本城が端然と座す。姫路城が白鷺のエレガンスなら、壁面も破風も黒く塗られたこちらの城はさながら黒鳥のストイシズムだ。天守閣を囲む堀の水の清明なこと! 信州・松本は市街地のあちこちで水音の響く「湧水の町」だ。盆地に開けた松本の標高は最も低いところでも555mある。水の清明を請け合うこの標高が地域の名物であるそばのおいしさとも大いに関係しているという。
評判店の一つ「蕎麦倶楽部 佐々木」を訪ねた。店主の佐々木文宣さんがちょうどそば打ちをしていた。麵棒をリズミカルに押し出す度に前腕の筋肉が露わになる。そばは難物である。小麦粉のように簡単には伸びず、切れやすい。だからこそ打ち手の力量が問われるのであり、出来のよいそば切りに出合うと感動がある。「今日のそばは麻績産の原種とそれを四賀で育てたもののブレンドです。麻績は松本市街から北へ車で40分ほど行ったところにある村です。ここに絶滅の危機に瀕していた在来種のそばがあって、それを去年麻績の少し手前の四賀という地区で栽培したのです」と佐々木さん。
彼が店を開いた2006年当時は県内各地から在来種のそばを取り寄せ、それらを打って店で出して好評を博していたが、近年はより大粒で収量の多い改良品種に押されて在来品種を栽培する農家が減少、入手が難しくなっていた。この状況に危機感を覚えた佐々木さんは農業法人と組み、在来品種の復興に挑んだのだ。「麻績のあたりは標高が800mあり、粘土質が優勢の硬い土壌です。この土地で作られる野沢菜や根菜類は非常に味がよいといわれていますが、そばにも独特の風味が出るのです」。
風土を忠実に表すには在来の品種であることが望ましい──これは、ワインなど多くの農産物加工品について近年よくいわれるようになったことだ。打ちたてのそばをもりで食べさせてもらった。山菜を思わせる野趣と蒸した芋のような香りがあり、噛み締めるうちに風味がどんどん増していくような勢いが感じられた。俄然、在来種のそばに興味が湧いてきた。
蕎麦倶楽部 佐々木
電話:0263-88-3388
住所:長野県松本市大手4-8-3
休日:月、日と火の夜
ハレの日のご馳走「とうじそば」を食べに奈川へ
珍しいそばの食べ方をする地域があると聞いて山間部に車を走らせた。小一時間のドライブで辿り着いたのは奈川地区。道路標識がその先に古い映画で知られる野麦峠があることを告げていた。奈川は2005年に松本市に編入されるまでは南安曇郡の一村だった。現在は600人ほどの人が暮らす。車を降りると、空気がひんやりとして感じられた。この辺りの標高は1,200mほどである。お目当ての「とうじそば」は街道沿いの「そば処 福伝」にあった。
創業20年になるこの店は、「信州そば切りの店」(*)認定1号店だ。店主の池田善寿さんによると、とうじそばは、つゆに季節の山菜や鳥獣の肉を入れて鍋仕立てにしたものに、一口にまとめたそばを浸して食べるもの。「とうじ」は温めるという意味であるという。もともとは寒い季節にそばを温かくして食べる工夫であり、ハレの日の料理として家庭でも親しまれている。
早速とうじそばを注文した。この日の具材は鶏肉、鴨肉、油揚げ、葱、なめ茸。そばを柄のついた「とうじカゴ」に入れて鍋に浸し、具材も一緒に椀によそって食べる。滋味に溢れたつゆがリッチで食べ応えがある。お代わりを繰り返す感じは盛岡名物のわんこそばと似ている。この食べ方の利点は、温かいそばでありながら最後まで麵がのびないこと。冷水で締められたそばは温めてもシャンとしていて、喉越しもよかった。
そば処 福伝
電話:0263-79-2003
住所:長野県松本市奈川4233
休日:水
実は奈川にも「奈川在来」という固有のそば品種がある。福伝でも季節限定(11・12月)で出すのだが、生憎すでにシーズンオフだった。諦めきれず、奈川観光協会に問い合わせると、「そばの里 奈川」という店で特別に打ってくれるという。店に着いてわかったのだが、この店の経営者は「ふるさと奈川」という地域運営法人で、この法人こそは奈川在来の復興に動いてきたところだった。同法人総括マネージャーの小林新蔵さんに話を聞いた。
「奈川では260年に及ぶそばの歴史があります。食味に優れた在来種をずっと守ってきたのですが、平成10(1998)年の台風で壊滅的な被害を受けてしまい、それを機に早生で収量の多い改良品種が導入され、すっかり在来種の栽培は廃れてしまいました」
以前の「そばらしいそば」を取り戻したいという思いで、小林さんらが在来種の復興に取り組んだのは平成16(2004)年のこと。県の原種センターに保存されていた在来種の種を「一握り」もらい受け、5年の歳月をかけて増殖させていったという。
打ち上がったそばをゆでてもらい、もりで食べた。鬼胡桃や椎の実を思わせる香ばしい風味が鼻腔をくすぐった。土地の個性を食べている、という感興が胸に湧いた。
そばの里 奈川
電話:0263-79-2906
住所:長野県松本市奈川1173-14
休日:火
そばに欠かせない「みすず細工」の復興話
松本市中心部はブラブラ歩いて回るのにちょうどよいサイズだ。家並みが低く空が広いので、歩いていて気分がよいし、由緒ある寺社、なまこ壁の家、レトロな建築など、目を楽しませてくれるものも多く、倦きることがない。市立博物館でそばとも関わりの深い郷土工芸と出合った。すず竹を使ったみすず細工だ。
博物館分館である「松本市歴史の里」で手仕事が見られるというので訪ねてみた。野麦街道にあった宿屋を移築したという建物の縁側で倉科由明さんがそばざるを編んでいた。農閑期の仕事として多くの農家が行っていたみすず細工は、そのクオリティーの高さから産業化し、最盛期の明治後期には海外への輸出品となったこともあった。しかし戦後はプラスチックの台頭もあり衰退。2009年に最後の職人がこの世を去ると、技術を継承する者がいなくなってしまった。これを復興させたのが倉科さんらだった。「教えてくれる人がいないから、過去に作られたものをバラして、そこから作り方を学ぶしかありませんでした」。
編むことよりも材料のひごを作ることの方が手間なのだそうだ。また、里山の減少や気候変動ですず竹の確保が困難になっていると。現在、技術指導者と職人、あわせて8〜10人まで、この工芸を継承する人の数は回復している。ひごを操る倉科さんの手元を眺めながら、奈川在来のそばの復興に尽力した小林さんの言葉を思い出した。「そばは喉越しだといわれますが、その前にしっかり噛み締めて、味わっていただきたいですね」。
松本市歴史の里
電話:0263-47-4515
住所:長野県松本市大字島立2196-1
休日:月(祝・休の場合翌日)、年末年始
浮田泰幸
うきた やすゆき/ライター、ワイン・ジャーナリスト、編集者。旅、ワイン、食文化、人物ルポを主なテーマに、広く海外・国内を旅し、雑誌やWebマガジンなどに寄稿。
砺波周平
となみ しゅうへい/写真家。細川剛氏に師事し、独立。2007年から八ヶ岳南麓の古民家に家族と移住。東京・長野・山梨に拠点を持ち活動中。
http://tonami-s.com/
松本へのアクセス
札幌(新千歳)、福岡、神戸から信州まつもと空港へJALコードシェア便が毎日運航。空港から市内へは車で約30分。
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