旅ごはん

【ニッポンうどん紀行】茨城「たらいうどん椛や」の原体験のたらいうどん

おそらく日本有数の「来店客の滞在時間が長いうどん屋」だろう。

 
今回の舞台は、茨城県水戸市。貞観元(859)年に創建された有賀神社の参道脇に建つ古民家を改装した「たらいうどん椛(もみじ)や」である。

 
たらいうどん椛や 外観

▲築150年。一帯に牧歌的な雰囲気が漂う。

 
周囲にはもみじを始めとする樹木が茂り、店内に足を踏み入れれば中を吹き抜ける風に晩夏の温気がすっと拭われていく。梁の渋茶、庭の深緑、座面の深紅が映し出す和のコントラストのなんと美しいことか。帰りがたい空間がそこには広がっていた。

 
たらいうどん椛や 店内

▲耳を澄ませば、ジャズに木々が揺れる音が調和していた。

 
「子どもの頃は、うどんに旨いも不味いもなかったです」

 
大きなガラス窓から庭に目をやり、主人・松岡献一郎さんが落ち着いた口調で言った。生まれは香川県の東、旧白鳥町(現在の東かがわ市)。曰く、うどんは「ただそこにあるもの」。子ども会、ご近所の集まり……人が集まれば近所の製麺所で買ってきたうどんを洗濯のたらいに移し、みんなで囲んで食べるのが日常だった。そんな松岡さんにとって、脱サラ後うどん屋を始めると決意したとき、原体験である“たらいうどん”を名物に定めたのはごく自然なことだったのだ。

 
松岡さん

▲松岡さん。建設機械メーカーを脱サラ後、全国のうどん屋を500軒以上回った。

 

「茨城に椛やあり」への歩み

松岡さんは、水戸の食文化に今も影響を与え続けている人だ。現在、市内にあるうどん専門店10軒のうち、7軒が松岡さんに関係するという事実に驚かずにいられない(直系店が4軒、弟子の店が3軒)。

 
これがどれほどすごいことか。聞けば、出発点からして好調とはいえないものだった。なにせ茨城といえば、常陸秋そばなどのブランド品種で知られる全国屈指のそば処。うどんはというと、わざわざ外食する慣習もない。後押しとなったのは、訪問者らによる口コミだった。

 
「当時、口コミサイトに勢いがあったのが追い風になりましたね。全国のうどん店ベスト3にしばらく入っている期間もあって、遠方から来てくださる方も多かったです」

 
だが、日々店が繁盛する一方で、松岡さんの心にある複雑な思いが沸き上がっていた――《これらの評価は純粋にうどんだけに向けられたものだろうか?》

 
「店がこういうナリをしているもんだから、どうしてもうどんそのものというより空間へのお褒めの言葉が目立つように感じて」

 
職人として当然の渇望だ。ちょうど常連客が増え、弟子も育ってきたところで店としての体力は十分、挑戦するなら今だと、「椛や」とコンセプトを分ける形で2014年、セカンドブランドの「肉汁うどん利八」をオープンさせ、現在3店舗を展開中である。

 

水戸っ子の心を掴んだ太うどん

釜揚げうどん

▲釜揚げうどん780円(税別)。もみじ型に飾り切りしたにんじんがあしらわれる。

 
初めて食べる人はまずその太さに目を奪われるだろう。力強くうねっためんは簡単には啜れない。はむり、はむりと一口ずつ噛みしめると高密度の弾力で歯が押し返され、後口は素朴な余韻に満たされる。

 
釜揚げうどん

▲食感は力強いが表面はすべすべとシルキーな仕立て。

 
つゆはいりこ、真昆布、宗田かつお、さばから引いただしと土浦の柴沼醤油、古酒みりんなどからなる。まろやかな口あたりで、めんを食べ終わった後もなかなか手放せない。めんには香川・吉原食糧から仕入れる豪産小麦使用の粉に、地元産のさとのそらを配合。「さとのそらは香りがいいんですが、なかなかのやんちゃ坊主。1割程度の量でもこいつがなかなか言うことを聞かないんです」と松岡さんも苦笑いするが、それでもこれを使うのには理由がある。松岡さんが尊敬する、製粉を頼んでいる田村定夫さんの存在だ。水戸の伝統めん製造における最後の職人である。

 
「粉の配達のたび、うちのうどんを食べていってくれるんですが、そのときに昔話を聞くのが楽しみで。生まれた頃は川のほとりで水車で粉を挽いていたとか、昔は山の方に1,000軒以上製麺所があったとか。田村さんは生き字引みたいな存在。元気に挽いてくれるうちは使い続けたいです」

 

コロナ禍、これから

この春は、とにかく尽くす日々だった。飲食店として未だ先行きが見えない状況が続くが、言葉を選びながらこの数カ月を振り返ってくださった。

 
「新型コロナウイルス以前もいろいろな災害があって、そのたびに泣きながらお客さまに助けてもらって乗り越えてきましたが、そろそろ役に立たんとと、茨城の人にお世話になりっぱなしじゃいかんな、と思うようになりました」

 
今度は自分たちが人のために。

 
まず3月末、給食停止で大量に余った牛乳を約100リットル買い取り、うどんを食べに来たお客さまに出した。野菜や肉など行き場のなくなった食材を優先的に買い取り、店先での販売も始めた。取引先支援に加え、子どもの日の前後3日間、シングル家庭向けにうどん200食以上を無償提供したり、給食停止中の地域の子どもたちのために約800食を振る舞ったりもした。だが――。

 
「5月はほとんどお客さまが来ないのにボランティアをやっていたもんだから、スタッフから『もうやめましょう。店がきついのに人のことやっている場合じゃないでしょう』と苦言を呈されたりもしました。たしかにそうです、シフトは以前のままで。本当に苦しい月でした」

 
手探りのままのボランティア活動と4店舗経営の間でもがく松岡さんを応援してくれたのは、やはりご常連の方々だった。たとえばこれまで月に1度のペースだった人が2度3度に増え、また、新しいお客さまを連れてきてくれることも。

 
今、松岡さんが思うこととは。

 
「少しは信用していただいていると思っていいのかなと、お客さまの言葉の端々から感じることがあります。コロナ禍で通勤がなくなり、行きたくない飲み会に行かなくなったことで健康になった人が増えたというニュースを見て、人間の本質は変わらないんだなと。これから、ますます自分の欲求や幸せに対して正直になっていくんだろうと思います」

 

「たらいうどん椛や」
住所:茨城県水戸市有賀町1021
TEL:029-259-4826
営業時間:月~金11:30~21:00(L.O.20:30)、土・日・祝11:00~21:00(L.O.20:30)
休日:不定休

 
井上こん
ライター・校正者。各地のうどん食べ歩きをライフワークとし、雑誌やWebサイト、テレビなどさまざまな媒体でうどんや小麦の世界を紹介。「うどんは小麦でデザインできる」ことを伝えるため、週がわり小麦のうどんスナック「松ト麦」店主の顔も持つ。著書『うどん手帖』(スタンダーズ)。

 

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