人、人、人……扉の向こうにはちょっとした異世界が広がっていた。
セールでも催されているのかと思うほど、およそ普通のうどん屋では目にすることのない光景にしばし立ちつくしてしまった。どうやら食券を買い求める列、番号札を受け取る列、順番を呼ばれるのを待つ列の3レーンに分かれているらしい。床に線が引かれているわけでもなく、長年かけて成立された暗黙のルールのもと、数十人が所狭しと入り口付近を埋めつくしている。その人々の頭上を「お二人さん、もつ二つたまご入り~!」と注文を通す声が飛び交う。なんという熱気だろうか。
ご婦人に教えてもらい、最後尾に並び店内に染み込んだ深いだしの芳香に大きく息を吸った。においがおいしい店に間違いはない、とある人の言葉を思い出した。「常連のお客さまにもよく『糸庄のにおいだ』と言っていただくんです」と、店を任される江田考輝さんが嬉しそうに話す。
目次
富山の《第二の麺料理》を目指して
1972年創業。「富山名物の氷見うどんを使った新しい料理を作りたい」との思いから故・古河睦雄氏が店を開き、まもなく50周年を迎える。
当時から看板は、味噌だしのうどんにたっぷりの豚もつをのせた《もつ煮込みうどん》。さしてもつ料理に縁があるわけでもない富山で、「富山ではこの店を訪ねるべし」と言われるようになって久しい。人気ぶりは冒頭のとおりで、ピーク時には50m以上もの行列を作り、日に1,000杯以上が出る。回転率のいい立ち食い店ならまだしも、提供に時間のかかる煮込みうどんで、だ。その存在感は今や《富山ブラックラーメン》に比肩するといってもいいだろう。
店の中心には15人ほどが座れる大きなコの字カウンターが配され、どこに座っても中の様子が見える。さらしの商売はやはりいい。白衣に身を包んだ江田さんが、少し踏み込むような姿勢で手際よくもつをのせていく。その後は、店内の様子に目を配りつつリズミカルに蓋を閉め、素手(!)で鍋位置を整え、くるっと踵(きびす)を返す、無駄のない動きの美しいこと。そんな彼の手元に、あの鍋こそ自分のものにちがいないと、四方からの期待のまなざしが注がれている。「お客さまの目の前で調理するのでいい緊張感があります」
いざ鍋が運ばれれば、皆一心にすすり、熱さに天を仰ぎ、店内にズルズルハフハフの大合唱が鳴り渡る。
丁寧な仕事が純な旨味を生む
豚もつは難物だ。鮮度のよさにかまけて少しでも手を抜くようものなら、特有のクセに食べ手の顔は一瞬で曇る。いかにまっとうな仕事をされたかが舌に、鼻に伝わる正直な食材なだけに、「もつの下処理こそ、うちの一番のこだわりです」と説明する江田さんの語気にも熱が帯びる。「糸庄」では、念入りに洗い臭みの原因となる脂や汚れを落としたもつを秘伝の味噌ダレに一晩漬け込むという。
地味だが確実な仕事をされたもつは真の味を露わに、融け出した甘みがこうじ味噌やだしと調和し、凝縮された味わいとなって口中に広がる。4種類の部位を使うとあって食感も豊か。ふんわり効かせたニンニクも動物性の旨味に合わないはずがない。さらに唐辛子のぴりっといい辛みにひと汗誘われ、胃袋が活性していくのを感じる。もう、止まらない。
麺は伝統製法を守る「海津屋」から、煮込みに適した特注の氷見うどんを仕入れる。輪島のそうめんをルーツに持つ氷見うどんは、江戸時代半ばに能登より現在につながる製法が伝えられたとされ、独特のつるみと伸びやかさが魅力である。
同店では下ゆでした麺をさらに具材とともに10~20分ほど煮込むが、麺肌は荒れることなくとろりとなめらか。内にいくほどもっちりと豊潤な食感が広がる。これらは引き伸ばした麺帯をたらい内で渦状に巻いていく《細目》、生地をよりながら八の字にかけていく《綾かけ》など、手切りうどんにはない工程から生まれるという。同じ味噌煮込みうどんでも名古屋のそれとはまたひと味違うあり方に、うどんの柔軟性をあらためて実感する。
現在、先行きがわからない状況が続いている。同店では営業時間を変更しながら元気に営業されているそうだ。もう既にあの熱気が恋しい。次に訪れたときには、常連さんのまねをして「糸庄のにおいだ」なんて言ってみたい。
糸庄
電話:076-425-5581
住所:富山県富山市太郎丸本町1-7-6
営業時間:6月は11:00~19:00(L.O.)19:30閉店予定
7月は11:00~23:00(L.O.)23:30閉店予定
※営業時間は急遽変更になる可能性がありますので、Webサイトにてご確認ください。
休日:火曜定休
URL:https://www.itoshou.com/
井上こん
ライター・校正者。各地のうどん食べ歩きをライフワークとし、雑誌やWebサイト、テレビなどさまざまな媒体でうどんや小麦の世界を紹介。「うどんは小麦でデザインできる」ことを伝えるため、週がわり小麦のうどんスナック「松ト麦」店主の顔も持つ。著書『うどん手帖』(スタンダーズ)。
関連記事