ここ数年、毎年夏になると沖縄県の今帰仁村(なきじんそん)に1週間ほど滞在するのが恒例になっています。最初にこの村を訪れたのは10年以上前、日本での滞在中に家族全員で沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館を訪れたのがきっかけでした。
ドライブ中に偶然行き着いた今帰仁の浜辺は、砂浜に到達するにも生え放題の植物をかき分けながら進まなければいけないほど手付かずの状態でしたが、そのありのままの自然を残した慎ましくも野生的な光景が忘れられず、それから何度かの夏をそこで過ごしてきました。
気温の高い昼間は古民家で仕事をし、午後の遅い時刻になると人影もないこの静かな浜辺へ行くというのが我々の今帰仁滞在での日課ですが、浜辺へ行くといっても泳いだりするわけではありません。砂浜に寝そべってただぼんやり海を眺めたり、引き潮になれば浅瀬伝いに岩の向こう側へ探索に行って、気持ちの赴くまま歩いたり、休んだり。そうやって目的を持たずに費やす時間ほど、私にとって贅沢なものはありません。
2年前、息子と浜辺を歩いていると、一人の老人と出会いました。今帰仁生まれだというその人は齢(よわい)80歳、褐色のたくましい腕には畳んだ網を抱えています。夕方になると時々ここへ来て網で魚を獲っているとのこと。かつては都会で仕事をしたこともあるけれど、この海が恋しくて戻ってきてしまったのだそうです。
「でも、本当は仕事がうまくいかなかったからなんだけどね」と補足しつつも、「まあ、お金がなくても、ここには魚がいるからさ」と微笑む皺だらけの顔を見ているうちに、私はヘミングウェイの『老人と海』を思い出してしまいました。
時刻はちょうど夕暮れ時。大空を染める鮮やかな茜色をバックに一人佇む老人の姿のかっこよさは、今帰仁の、人に媚びない美しい海の印象をさらに際立たせていました。
やまざき まり
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『プリニウス』(とり・みきと共著)、『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『パンデミックの文明論』(中野信子と共著)、『たちどまって考える』など。
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