私の祖父は、大学で経済学を学んだ後に就職した某銀行の支店設立のため、1918年から11年間アメリカの西海岸で生活をしていました。幼い頃から西洋文化への強い憧れを持って育った横浜育ちの23歳の若者は、最初の渡航先であるロサンゼルスに到着すると、水を得た魚のように現地での暮らしに馴染んでいきます。
祖父のアルバムには当時の記録が何枚も残されていますが、ゴルフやテニスをしたり、街角で真っ白なスーツを着てお洒落なポーズを決めていたり、本来の目的である仕事はしっかりやっていたんだろうか、という疑念が湧いてしまうほど、写真のなかの祖父は生き生きとした楽しそうな姿で焼き付けられていて、いつかアメリカへ行ってみたいという思いが、孫である私にも募るようになりました。
祖父は日本へ戻ってきてから亡くなるまで、日常でもよく英語を混ぜて会話をする人でしたが、第二次世界大戦中にアメリカから運んできた多くの思い出を手放さざるを得なかった彼の、古き良きアメリカへの思いがそうした行動にも現れていたのでしょう。
祖父が亡くなった後、留学先のイタリアから一時的に戻ってきていた私はふと若かりし頃の彼の軌跡を辿りたいという衝動に駆られて、ロスへ赴いたことがあります。私にとってはそれが初めてのアメリカでしたが、ヨーロッパで感じるようなアウェー感や疎外感はなく、明るくて風通しもよく、かつてこの地に降り立った祖父が抱いていたであろう前向きな気持ちが自分にも漲ってくるのがわかりました。
祖父が支店として建てた銀行の建造物はもうありませんが、跡地とされる場所の周辺をうろついていると、頭のなかで白いスーツ姿の祖父が私に向かって「みんなが新天地で頑張る人々だった。だから楽しかった」と、いつもの口癖を呟いているような気がしてなりませんでした。
やまざき まり
漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授。1967年東京生まれ。84年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。著書に『プリニウス』(とり・みきと共著)、『オリンピア・キュクロス』『国境のない生き方』『ヴィオラ母さん』『パンデミックの文明論』(中野信子と共著)、『たちどまって考える』など。
『ヤマザキマリの世界逍遥録』が待望の単行本化!
JALグループ機内誌『SKYWARD』に大好評連載中の「ヤマザキマリの世界逍遥録」より、2018年5月号~2020年10月号に掲載された30編を収録。ヨーロッパ、中東、アジア、アメリカ、南米……世界を旅するヤマザキさんならではの、独自の視点で捉えた各地の魅力をイラストとともに綴っています。さらに特別編として、JALカード会員誌『AGORA』2019年7月号、8・9月号に掲載の、タイ・チェンマイ~チェンセーン~チェンライ周辺を巡った「タイ北部紀行」前後編も併せて収録。
定価:1,430円(税込)
発行日:2021年3月31日
サイズ:四六判(天地:188mm/左右:128mm)
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